「沖」と一致するもの

 この度、久しぶりに単行本を出版しました。タイトルは「日本の壊れる音がする-今なら、まだ間に合う!-」という本で、朝日新聞出版が発行してくれました。6月4日に出版、そして6月9日に八重洲ブックセンターで出版記念キャンペーンを行いましたところ、大変観衆を呼び、2,000冊以上が売れてトップセールスになったようです。

「日本の壊れる音がする-今なら、まだ間に合う!-」

 なぜこのような本を書いたのかと申しますと、昨年の8月末に総選挙があり、自民党が退廃し、民主党が躍進した結果、民主党政権が生まれました。それは多くの選挙民が民主党に投票した結果ですが、選挙民は長い間政権についていた自民党にすっかり失望して民主党に大きな期待を託した結果だと思います。

 民主党は野党時代を通じて脱官僚と政治主導を唱えていました。実際、自民党政権時代に自民党は"自分党"と言われるように、全国各地の議員が自分の選挙区を子供に継がせるという慣行が広まったために新しい人材が自民党からは立候補しにくくなっており、一方の民主党は、若くて優秀な人材が多く入っていたということも選挙民にはひとつの期待を抱かせたかもしれません。

 しかし、その民主党は発足してほどなく国民に大きな失望と疑問と不安を持たせることになりました。まず、三党合意の暴走です。多くの国民は民主党に投票しましたが、国民新党や社民党に投票したわけではないのに、これらの小党が民主党政権の政策を勝手に大きく制約することになり、国民は違和感を覚えました。次に政治と金の問題です。総理大臣が多額のお金を母親から受け取って報告もしていなかったのです。小沢幹事長が多額の資金疑惑に包まれている中でその問題が解明されずにいることです。また、鳩山総理がぎりぎりの沖縄県民の理解を得て、普天間基地を辺野古に移すという日米合意が成り立っていたのを空想的理想主義で「国外」や「県外」と叫んで沖縄県民の気持ちを翻弄し失望させたことです。また、この政権は準備不足あるいは慣れていないということもあったかもしれませんが、経済計画なしで10ヶ月も経過してしまったという異様な在り方、しかも子ども手当をはじめとして多額のお金を国民に寄付する約束をしたために、財政赤字が累増して危険水域に入ってきていることなど様々な問題が露出してきました。

 そしてマニフェストで約束した国民への給付は、実は多くの自己矛盾に満ちていました。派遣労働者がかわいそうだと派遣を禁止にする法案が出されましたが、これは立場の弱い労働者を更に窮地に追い込むという逆効果があります。子ども手当は15歳以下の子どもがいる900万家庭に配られますが、15歳以下の子どもがいない3,900万家庭には給付されないので、消費刺激策と考えるならばこんなに不公平な政策はありません。子育てというのであれば、サービスの充実の方がはるかに重要です。公立高校の無償化を導入しても子供たちの志望傾向はほとんど変わりませんでした。それは10万や12万で人生の選択をしていないということです。逆に本当に家庭の経済状況が厳しい学生がおります。この方たちのために数百億円の奨学金をつくることの方が遙かに効果が大きいでしょう。

 つまり、マニフェストの政策の思いはわからないでもありませんが、その帰結は狙いと逆になるという自己矛盾に満ちたもので、しかも多額な給付のために国債を増発せねばならず、国の借金は今や膨大になっております。直近のデータでいうと国の借金は970兆円になっており、国債を買える国民の純金融資産は1,060兆円に過ぎず、このような無邪気な給付政策をしていると、日本はそろそろ純債務国に陥る危険があります。日本の規模はギリシャの20倍も大きいので、もし純債務国になって国債の価格が暴落すると日本が壊滅するだけでなく、世界経済にも大変な影響を及ぼすことになります。

 そのような欠点と矛盾に満ちた政治政策運営をこのまま放置すると日本が崩壊するという危機感を多くの人々が持ちました。それが鳩山政権に対する支持率の急落に現れました。こうしたいわば国難といえる現象も実は国民の選択の結果なので、次の選挙やその次の選挙に国民が間違った選択をしないようにもっと経済や政治や世界情勢をしっかり学ぼうという意図を込めて私はこの本を書きました。

 6月4日に菅直人氏が民主党代表になり首相に指名を受け、ほどなく菅政権が発足しました。菅政権は小沢幹事長との距離を開けるという巧みな演出で国民の支持率は急上昇しています。菅総理大臣は財政政権や成長戦略も力を入れると言っていますので、多いに期待したいところですが、菅総理の唱える第三の道という成長戦略は、国民から税金を取ってそれを家族の支援に回せばそれが支出となり、経済が成長するという考えのようですが、最も重要なことは国民が求めるサービスが提供され、それが雇用になるメカニズムを具体的にどう整備するかということです。国民が望むサービスを提供するのは基本的には民間部門であり、これは別に税金を取らなくてもよいサービスが提供されれば、国民はそれを求めます。従って、税金が"雇用創出"を通じて成長に結びつくという可能性はもちろんありますが、それよりも自由な競争がよいサービスを生み、それが雇用の成長促進に結びつくというメカニズムが本来のメカニズムで、その本来のメカニズムが満たされるならば、別に国民から税金を取る必要はありません。

 私どもは経済を強化すると唱って新規事項を打ち出しつつある菅政権に期待をかけながらも、その実態を見つめていい選択をする必要があるでしょう。ご興味のある方はぜひこの本を読んで、どのような選択をするべきか考えていただければと思います。

 11月14日の午前10時から開かれたオバマ大統領の演説会に、私もホワイトハウスから招待されました。オバマ大統領は前日の午後に日本に到着され、夕方に鳩山総理と会談をされました。その夜に鳩山総理がシンガポールのAPECの会合に発たれた後、半日ほど日本に滞在をされ、14日の午前中にできるだけ多くの日本を代表する政財界人、知識人、そしてメディアの人々を相手にアジア戦略に関する自分の意見を開陳したいということで演説をされました。

 普段はオーケストラが演奏会を行うサントリーホールのステージの上には日米の両国旗が背景に飾られ、オバマ大統領の演説台には大統領のエンブレムが飾られるという、いかにもアメリカらしい華やかな雰囲気の会場が設えられました。

 オバマ大統領は軽やかに、そして颯爽と会場に現れ、観客席ににこやかに手を振り、演説を始められました。私もオバマ大統領の演説はテレビでは何度も見ていましたが、実際に聴くとごく普通の口調であったことが印象的でした。

オバマ大統領のアジア演説01

 アジア歴訪の最初の場所を東京に選んだという内容から始まりました。実は、オバマ大統領は少年の頃に一度母親に連れられて鎌倉を訪ねたことがあったそうです。しかし少年の記憶に残っていたのは大仏よりもそのときに食べた抹茶アイスクリームであったとのことですが、「昨日、鳩山総理の夕食会に招かれたときにはもっとたくさんアイスクリームを食べることができた」と言って皆を笑わせました。また小浜市の市民が来ていることも念頭に置き「小浜市の皆さん、ありがとう」などと愛嬌を振りまいていました。

 オバマ大統領の演説は20分ほどでしたが、まず日米の同盟関係がいかに重要かということを強調され、現在、懸案になっている沖縄の普天間基地の移転問題については「特別委員会をつくって早急に解決をみたい」と言明されました。そして、「アメリカと日本は太平洋を隔てて地理的には遠い関係にあるが両国の関係は切っても切れない深い結びつきで繋がっており、特にアメリカはアジアを重視し、太平洋国家としてアジア戦略を誠意をもって進めたい」と強調されました。また、「中国の成長は脅威ではなく、アメリカを始め他の国々と一緒に努力をすることでパイを増やし、より繁栄した世界を築くことができる」というポジティブな見方を強調されました。

 そして「アメリカはこれまでよりはるかに熱心に、APECはもとよりASEAN諸国やG20、G8など様々な国際ネットワークに最大限の関わりをもっていく」と強調され、「特にその中では、日本の果たす役割もきわめて大きいだろう」と日本を持ち上げてみせました。
地球環境問題に深く関わっていきたい、核廃絶したい、あるいは世界の人権問題の解決のために全力を尽くしていきたい、世界の国々が協力すればどのような難問も乗り越えていけるというオバマ流の考え方、すなわち「私たちは人々の協力によって世界史をよい方向に変えることができるのだ」というメッセージで演説を結ばれました。

 演説の際にオバマ大統領の左右にはプロンプターが掲げられていましたが、殆どプロンプターに目をやることはなく、誰が聞いてもわかりやすい明確な表現で流暢に話を終えられ、サントリーホールをうめた1,500人の聴衆はスタンディングオベーションで大歓迎の意を表しました。さすがにアメリカの激しい選挙戦を通じて選ばれたアメリカの歴史を変えようとしている大統領ならではと思いました。オバマ大統領の印象を一言で表すと「さわやかなオーラの人」でした。

オバマ大統領のアジア演説02
(オバマ大統領のパンフレット/米国大使館編集・発行)

 実はこのオバマ大統領がアジア演説を実現する上で、私にはある特別な関わりがありましたので、このブログでご紹介させていただきます。

 私は現在、日本フィルハーモニー交響楽団の理事長をしておりますが、この11月14日の午前中のオバマ大統領が演説をされた時間は午後から定例のオーケストラの演奏会を開く、日本フィルハーモニー交響楽団のリハーサルの時間でした。

 1週間ほど前に、ホワイトハウスからサントリーホールのその時間帯を使わせてもらいたいとホールに連絡があり、ホールから私の親友の日本フィルハーモニー交響楽団の平井専務理事に連絡があったそうです。しかし、「リハーサルの時間を提供する理由については誰にも明かさないでくれ」ということで、平井専務理事は難しい立場に立たされました。

 音楽家は芸術家であり、自分の納得しないことを簡単に受け入れないことを平井専務理事はよく知っていたからです。しかし、「理由は明かせないがこの時間を空けてくれ」という平井専務理事の誠意をもった頼みに、楽団員は快く応じてくれました。これがホワイトハウスに伝えられると、ホワイトハウスは大変喜んだそうです。オバマ大統領の訪日2日前にそれがオバマ大統領の演説のためだとわかり、関係者はその準備のために奔走しました。

 当日は、日本フィルハーモニーのソロ・コンサートマスターの扇谷氏(ヴァイオリン)、コンサートマスターの江口氏(ヴァイオリン)、ヴィオラの小池氏、チェロの江原氏、クラリネットの伊藤氏の5人が演壇に上がり、室内楽のかたちでモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、「クラリネットクインテット(五重奏曲)」ハイドンの「ひばり」を演奏しました。会場の1,500人が30分ほどの日本フィルハーモニー交響楽団の演奏を聴いて、ある種の深い洗練された空気が会場を満たすのが感じられました。そして、そうした演出をしておいたうえで、オバマ大統領が登場するという誠に絶妙なアレンジでした。

 オバマ大統領は演壇に立つ前に、楽団員たちの労をねぎらって演奏を終えた5人の演奏家と楽屋で密かに記念写真を撮ってくれたとのことです。ホワイトハウスから楽団員に謝礼はありませんでしたが、楽団員たちはオバマ大統領と写真を撮ったことが何よりも記念になったはずです。オバマ大統領は、芸術を愛する大統領でもありました。

2009年09月08日

2009年GPAC開催 その1

 8月25日から30日にかけて本学のキャンパスを中心にGPAC 2009が開催されました。GPACとは"Global Partnership of Asian Colleges"という言葉の略語ですが、私どもは日本語で"アジア学生交流会議"と訳しています。このGPACは18年前に創設され、今回を含めて14回ほど開催されています。

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 千葉商科大学は昨年のソウル大会からGPACに参加しました。早くも2年目で、今年はホスト校の役割を引き受けて、アジア各国からの学生諸君や先生方、また日本の慶應義塾大学や沖縄の名桜大学の方々を招いてGPACを運営しました。今年は海外からは、ソウル国立大学、台湾国立政治大学、中国の北京大学、ベトナム国立大学から参加がありました。ソウル国立大学からはMin Sang-Kee教授と学生18人、台湾国立政治大学からはWei-Jen Wen教授、山本竜市教授と学生36人、北京大学からはLei Chen教授と学生4人、ベトナム国立大学からはNguyen Thuy Linh教授と学生4人、慶應義塾大学からは竹森俊平教授と学生22人、名桜大学からは仲津清教授と学生11人、そして千葉商科大学からは8人の学生が参加し、学生諸君の参加は総勢で103人でした。

GPAC2009_02

 GPACがどのような意味を込めて18年前に発足したか、簡単にご説明しましょう。

 1989年にベルリンの壁が崩れて、それまで半世紀ほど続いた世界の冷戦構造が崩壊しました。冷戦構造はアメリカとソ連だけでなく、全世界、そして私どもの住んでいるアジア世界も巻き込んでいました。特に日本と韓国は、地理的、文化的、民族的にも最も近い国であるにもかかわらず、冷戦のおかげでほとんど交流のない、最も遠い国として隔てられていました。冷戦が終わったということは、そのような不自然で悲しい状況を終わらせる可能性が見えたということでもありました。

 私はベルリンの壁が崩れた翌年、ハワイで開かれていた国際学会で、韓国の先生方と一緒に議論する機会がありました。そこで私は「冷戦が終わったので、この不幸にも最も遠く分け隔てられている日本と韓国が本来のもっと近い関係に戻るための努力を、特に次の若い世代のためにしようではないか」と呼びかけました。韓国の学者のなかで、「私がそのリーダーシップをとって、島田教授と一緒にやりたいと思う」と申し出られたのが、ソウル国立大学のMin Sang-Kee教授でした。Min Sang-Kee先生は国際的にも知られた高名な金融経済学者でしたが、そこで二人はすっかり意気投合して、次の時代を担う若い学生諸君に定期的に日韓で学術会議を開いて、率直に意見を交換するなかでお互いの信頼関係を築いていこうということになりました。また、それぞれにとって母国語を使うと不公平になるので、お互いに不利な第三国語、すなわち英語で徹底的に討論しようということになりました。

 そして1991年に、当時、私は慶應義塾大学の教授でしたが、慶應義塾大学のチームを率いてソウルを訪ね、ソウル大学と第1回の日韓学生討議を行いました。これは韓国の多くのメディアの強い関心を惹きました。

 韓国と日本の間で、3年に1度、あるいは2年に1度といったペースで、最初の頃は会合を開いておりましたが、やがて毎年開催しようということになりました。その後、韓国の延世大学、日本の中央大学、沖縄の名桜大学、それから台湾の台湾国立政治大学、韓国の済州国立大学、中国の北京大学、そしてベトナム国立大学などが加わって、近年では、百数十人の集まる大きな運動体になってきました。

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 今年は約100人の学生諸君が、市川の千葉商科大学のキャンパスで数日間を一緒に過ごして討議をするところまで成長してきています。このGPACは世界でもユニークな学生同士の学びあい、そして交流を深める機会になっていると思います。

 次回は、今年のGPACの準備から開催までをご紹介したいと思います。

2009年03月17日

アラブ諸国の訪問

 3月中旬にアラブ諸国の盟主とされているサウジアラビアの首都リヤドとアラビア湾岸にあるアラブ首長国連邦の首都アブダビを訪ねました。

 今回のアラブ諸国の訪問は、これらの諸国がもっているオイルマネーを日本に招き入れるため、アラブ諸国の投資家たちに日本をもっと理解してもらい、日本のベンチャービジネスやファンドの専門家と商談を進めてもらうための旅でした。過去16年間、私は日本政府の対日投資会議の専門部会長をしており、福田政権以降は対日投資有識者会議の議長をしていますので、その立場での訪問でもありました。

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 今回の訪問団は、経済産業省が企画し、23社のベンチャービジネスとファンドの専門家の方々を組織した部隊でした。サウジアラビアでは数十名の有力な投資家たちに対して、私がまず日本経済のもっている大きな可能性について講演し、その後で同行の23社のビジネスリーダーたちが投資家たちと1対1で懇談をするという企画でした。

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 サウジアラビアには様々な規制があり、投資勧誘が表向きは許されていませんが、個人的なネットワークづくりは構わないということでこの企画を推進しましたが、なかなか好評でいくつかの商談に繋がりそうな話が進みました。

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 現在、アブダビは世界の国々の中でも最も対外投資に関心のある国です。サブプライム経済危機の影響も比較的少なく、世界中の国々がアブダビの投資機関に投資を求めて殺到している状況です。従って、アブダビの投資家たちの選球眼は大変厳しいものになっています。アブダビでも、私は日本経済のこれからの可能性について詳しく話をし、23社のビジネスリーダーたちをアブダビの専門家たちに紹介をして、商談成立のためのアレンジをしましたが、こちらも好評でいくつかの商談が開始されることになったようです。

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 今回の訪問で強い印象を受けたことは、戒律の厳しいサウジアラビアと世界で最も開放された国のひとつであるアブダビの好対照です。サウジアラビアではイスラムの戒律が厳しく人々の生活を制約しており、女性は黒い衣装で目をだすことしか許されていません。お酒も一切駄目で、国外からお酒を持ち込むと発見されれば直ちに刑務所行きとなる厳しい戒律に縛られています。また、イスラエルを訪ねたことがある人は2年間サウジアラビアに足を踏み入れることはできません。

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 ところがアブダビは、おそらく世界で最も開かれた国のひとつで、空港に降り立つとあたかもホテルの貴賓室に入ったような気分になります。入国審査も税関も笑顔で迎えられ、すぐにパスします。ホテルに入るとイスラム教であるにもかかわらず、ワインのボトルが並んでいるという状況です。そして、青いアラビア湾に素敵な建物が映えて、夢のような国です。もとはベドウィン族がラクダを追っていた小さな砂浜だった国ですが、世界の交流の拠点としてあらゆる取引を自由に開放した結果、これほど見事な繁栄をすることができた好例と思います。

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 この国全体は沖縄より小さな国ですが、日本の将来にとって、開放するということがこれほどの力をもつかという、よいお手本になるような気がしました。

 2月4日から12日にかけて、外務省の要請で8日間ほど中東の3ヶ国を訪問しました。イラン、バーレーン、ドバイです。

 外務省は世界各国との相互理解の促進のために、時折日本のオピニオンリーダーなどを世界各国に派遣して各国との友好と相互理解の促進のために講演活動などをしてもらうという広報戦略をとっていますが、今回私にぜひ中東諸国で日本の経済や世界経済危機への対応などについて話をしてもらいたいとの強い要望があり、国の要請ということもあるので学務多忙の中で皆様のご理解を得て訪問をしました。

中東諸国歴訪の旅01

 中東諸国と一口に言っても、日本にはあまり馴染みがないことですがイスラム教の熱心な信者たちであり、人口の増加率の高い国々ということもあって、イスラム教の浸透している人口が世界では13億程度に達しており、ますます拡大の勢いをみせています。世界地図を開いてみてもわかりますが、西は地中海の西端の北アフリカから地中海沿岸、アラビア半島を中心とするペルシャ湾などの沿岸、そしてトルコ、イラン、東はインドからマレーシア、そしてインドネシアまでにわたる世界のざっと見晴るかして半分くらいの地域がイスラム教圏です。

 従って、日本にとってこれらの国々の重要性が極めて大きいし、とりわけイランや湾岸諸国からは日本はその石油資源のほとんどを輸入していることもあり、日本にとっては生命線の諸国でもあります。しかし、強い教義をもったイスラム教が世界の人口の3分の1ほど浸透しているにもかかわらず、日本はその影響をほとんど受けていないために、そのような宗教や考え方や人々の生活についての理解が極めて少ないと言わざるを得ません。そのような意味も込めて、外務省は私にそれらの地域での相互理解を深める活動の一端を担ってもらいたいと要請してきたようです。

 私が訪れた3ヶ国の国々は、それぞれ事情が大きく異なります。イランは人口7,200万の中東イスラム圏における言わば盟主国です。最近はアメリカとの関係が緊張しており、ブッシュ政権以来、イランは厳しい経済制裁を受けて世界経済の中で孤立させられた状況におかれています。アメリカはイランが核開発をしているという疑念を強くもっており、国連でも幾度となく核開発の禁止、あるいは核開発の状況を機関で査察させるよう決議が繰り返されてきましたが、イランはそれに従おうとしないためにアメリカとの緊張関係が高まってきていました。一方、イランは世界最大の石油産出国のひとつであり、日本にとってはサウジアラビア、UAEに次いで3番目に重要な石油供給国でもあるので、相互理解をもつことは極めて重要です。

 バーレーンはペルシャ湾のないしはアラビア半島の東端にある人口100万人ほどの美しい島です。かつては単なる砂漠の小島でしたが、今や沖縄をしのぐ、一見ディズニーランドのような島で日本とは古くから友好関係があります。

中東諸国歴訪の旅02

 また、そこからほどない距離にあるドバイは、この5,6年ほど自由貿易港として急激な成長を遂げ、中東地域の中継貿易・投資拠点として目を見張るような発展を遂げてきました。日本から見ても極めて重要な経済交流のパートナーであり、これら3つの国との相互理解を深める任務を担って、私は各国を訪ねてきました。

 これから数回にわたって、これらの国々での見聞やそこで考えたことをブログに書いていきたいと思います。

 10月4日に、今年の8月末に韓国のソウルで開催されたGPACに参加して活躍をした学生たちと、その学生をご指導、応援してくださった先生方、そして事務局の方と報告会を行いました。

 先日、このブログでも紹介しましたが、8月末にソウルで行われたGPACは大変な成功をおさめました。千葉商科大学は初めてGPACに参加しましたが、韓国、台湾、中国、ベトナムを代表する立派な大学の学生諸君、そして日本から参加した慶應義塾大学、沖縄の名桜大学の諸君に交じり、様々なテーマに分かれて参加しましたが、国際協働チームで見事な発表をするなど大活躍をしました。今回、その結果の報告会を内輪で開き、それと同時に来年度に向けての準備の打ち合わせも行いました。

GPAC報告会01

 来年度もGPACは8月末に開催する予定です。開催場所は日本、すなわち市川市にある本学のキャンパスで開催することになります。本学がホスト校になりますので、単に参加するだけではなく、日本を訪ねてくる各国の学生諸君や教職員の皆様の交通、宿泊、食事からエンターテイメントまで、足回りのお世話もしなくてはいけません。また、ホームステイのアレンジなども必要です。

 そして勿論、学術的なプログラムをつくる必要があります。各大学の参加者が提案してくるテーマを受け止め、GPAC全体としてバランスがとれて、参加者がそれぞれよいかたちで討論ができ、その議論が噛みあうようなプログラムを企画・立案していかなければなりません。そのためには、これから何をしなければならないかということを話し合いました。

 今回は内輪での会合でしたが、これまでの活動と今回のGPAC参加についての大規模な報告会は、来る10月31日のユニバーシティ・アワー(全学の学生諸君及び教職員が集まる大きな集会)を活用して行います。GPACでの活動報告の他にも、学生諸君の活動状況を記録したビデオなどを上映や表彰を行います。

 このGPAC参加のもとになっているのは学長ゼミです。学長ゼミは、当初30名ほどでスタートをしましたが、厳しい勉強の過程において、最終的に9人がソウルで活躍をしてくれました。その学生諸君の努力に対して表彰をします。

 本学ではこのような国際活動、福祉活動、地域活動といった世の中に役立つ活動、あるいはスポーツ大会での活躍、また勉学での成果をあげた優れた学生諸君など、数多くの学生を表彰していく方針を立てていますが、今回の学生諸君の表彰はその第一歩となるものです。

 同時にこれから学長ゼミをさらに発展させるために、10月31日のユニバーシティ・アワーの時間に次の学長ゼミの参加者を募ることにしています。

 本学の学生諸君はできる限り、このユニバーシティ・アワーに参加してください。

 前回に引き続き、今回はGPACで学生たちがどのような活動をしてきたのか、お話ししたいと思います。

 GPACに参加した各国の学生たちは、過去数ヶ月にわたってインターネットで情報を共有し、意見をぶつけ合い、調整をし、最終的に6つのテーマに絞り込んで、そのテーマで多国籍チームをつくって議論し合い、その議論の結果を各チームごとに統合された分析と提案として、全体会議に提出をしました。分野は、Business Administration(経営管理)、Environmental Economics(環境経済)、International Finance(国際金融)、International Trade(国際貿易)、Macroeconomics(マクロ経済)、Labor(労働問題)の6つです。

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 千葉商科大学の学生は特に環境経済と国際貿易に参加しました。各国のそれぞれのゼミは大変多様な問題意識をもっており、どのチームもかなり多様なサブトピックスを各国がもちこんできましたが、それを2日間の真剣かつ熱心な討議を通じて、総合的に取り纏め、主張点を明確にし、ポリシーインプリケーション(政策的提言)を提案するという大作業を学生が行いました。

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 環境経済を例にとると、韓国は排出権取引の問題、台湾は経済成長と排出量の関係の問題、沖縄の名桜大学は珊瑚礁の価値についてという、相当多様な問題意識でした。これに対して、千葉商科大学の学生は、環境規制を厳しくすることが、企業にイノベーションの努力、技術革新の努力を促し、その結果、企業の競争力が高まるとともに環境にもよい影響をもたらすという論点をトヨタやホンダのケースを踏まえて主張しました。

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 2日間の大議論の後、地球環境問題が重大問題で、排出権取引もいろいろな珊瑚礁の問題も重要だけれども、最終的には技術革新が決め手で、それは環境規制を強化することが技術革新に繋がり、問題を解決に導く可能性があるということで纏められ、本学の学生の勉強が大いに全体の議論の流れの中で活かされることになりました。

 思えば半年前に英語で発表することなど考えもよらない状況でスタートし、よくここまできたものだと思いました。他のグループは国際経済で特に食糧不足問題について、中国の例をひきながら論じましたが、これも全体の流れの中に組み込まれて、努力が報われたと思います。

 世界各国の学生が、それぞれの問題意識を出発点としながらインターネットでの議論や実際に会ってからの議論を積み重ねる中で何が本質的に重要なのかを探り当てて、そして皆で意見を調整して、百何十人の世界の人が見守る中で発表するというこの体験は、若い学生諸君にとってかけがえのない貴重な刺激になったのではないかと思います。

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 会議が終わってから、学生諸君は日本で言うならば新宿あたりに相当するミョンドンに繰りだして、真夜中まで徹底的に飲んで、さらに友情を深め合っていたようです。

 翌日は皆で企業見学をし、そして海に泳ぎに行くというプログラムで本当に素晴らしいひとときを過ごしたのではないかと思います。

 私は学生たちがこの数ヶ月で見事に成長していく姿を目撃し、各国の先生方とも共通ですが、このGPACがもっている教育効果が素晴らしいことを再確認した次第です。

 GPACは持ち回りで開催されますので、来年は日本で開催されることになります。日本では、慶應義塾大学、名桜大学、そして千葉商科大学が共同開催のかたちをとりますが、学術会議の主会場は千葉商科大学にするということで各国の先生方の了解を得ました。来年は8月27日、28日と本学のキャンパスを中心にこの国際会議を開くことになります。

 このGPACの結果報告は、10月末もしくは11月初めにユニバーシティ・アワーを使って大々的にビデオを駆使しながら、皆様に報告をしたいと思っています。ユニバーシティ・アワーは決まり次第発表しますのでぜひ参加してみていただきたいと思います。

 また今回GPACに参加した9人の諸君に続いて、さらに何倍もの学生が参加してくれることを期待したいと思います。学長室ではいつでも参加希望を受け付けていますので、学長ゼミに参加したい人は気楽に申し込んでください。

 8月下旬にソウル国立大学においてGPAC・アジア学生交流会議が開催されました。GPACは、“Global Partnership of Asian Colleges”の略称です。この会議は16年前に初めてソウルで開催され、それから日本、台湾と持ち回りで行われ、そして再びソウルで開催されました。

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 以前、このブログで学長ゼミの紹介をしたことが何度かありますが、学長ゼミの大きな目的のひとつがGPACに参加して、国際社会で世界各国の学生と交流し、切磋琢磨するということにありました。

 学長ゼミは昨年の暮れから、熱心に学生たちが主体的に勉強をしてきましたが、今回のソウル大会でめざましい活躍をしてくれ、私としては大成功であったと思います。

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 GPACは8月28日、29日の2日間にわたって学術討論会を行いました。学生はその2日前にソウルに集まって、スポーツイベントを一緒に楽しんだり、大いに学生交流をしました。そして、30日、31日とソウルで企業見学したり、近くの観光リゾートで特に浜辺で泳いだり、楽しい時間を各国の学生たちと過ごしました。

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 千葉商科大学から参加した諸君は、代表の伊藤健君(政策情報学部 政策情報学科 4年)、副代表の大村元彦君(政策情報学部 政策情報学科 4年)、銭亮華さん(政策情報学部 政策情報学科 4年)、楊琪潔さん(政策情報学部 政策情報学科 4年)、菅谷翔一君(商経学部 経済学科 3年)、若木一真君(政策情報学部 政策情報学科 3年)、松村圭悟君(政策情報学部 政策情報学科 3年)、中本大樹君(政策情報学部 政策情報学科 2年)、太田輝一郎君(大学院会計ファイナンス研究科 2年)です。また私を含め、武見浩充会計ファイナンス研究科長、学長事務室の橋本さんが参加しました。武見先生は学長ゼミを終始あたたかくご指導くださいました。また参加はされませんでしたが、英語については近藤恭子先生、高橋百合子先生、そして太田三郎先生、鎌田光宣先生、太田昌志先生、五反田克也先生のご尽力にもこの場をかりて感謝したいと思います。

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 GPACに参加した国々は、日本、韓国、台湾、中国、ベトナムの5ヶ国でした。日本からは慶應義塾大学の竹森俊平先生のゼミのチーム28人、沖縄の名桜大学の仲地清先生のチーム6人、そして本学からは学長ゼミの9人です。ソウル国立大学は副学長のミンサンキ(Min Sang-Kee)先生が組織したボランティアの学生たちのグループ28人です。Min Sang-Kee先生はソウル国立大学の副学長で、国際金融の専門家で韓国の学会では代表的な学者です。台湾はWei-Jen Wen先生、Kun-Ming Chen先生の31人、中国はJanet Wang先生が引率した6人、ベトナムはNguyen Cuoc Viet先生の6人、教員も含め総勢124人です。

 長くなりますので、この学生たちがGPACでどのような活動を展開していったのか、次回詳しくお話したいと思います。

 去る10月5日に移住・交流推進機構という機構が設立されました。これまで約1年にわたり多くの関係者が努力をしてきましたが、準備会を重ねて、10月5日に全国総会を開き、この機構の設立を確認し、そこで私がこの機構の会長に就任いたしました。今回は、その移住・交流推進機構の意義について、この場をお借りして少し説明をしたいと思います。

 高齢成熟社会を迎える日本において、大都会で高齢化していく方々の中には、もっと健康環境がよくて、広々としていてゆったりと暮らせる地方に住んでみたいと思う方がたくさんいらっしゃると思います。そのような方々を中心に、地方に行くとこんなチャンスがある、こんな暮らし方ができる、こんなふうに健康増進の新しいライフスタイルで暮らすことができるといった具体的な情報を、様々なかたちで多くの国民に提供するためにこの機構が設立されました。

 全国各地には、人口の減少によって過疎になり、大変苦労している地方が多くあります。そのような地方の中で、人口の多い大都会から、中高年者、定年退職者、あるいは地方に住みたいと望まれている方々をお招きし、楽しく健康に住んでいただくために様々な努力をしたいと考えている地方に対し、多様な情報を提供し、お互いに学ぶ機会を設け、企業との連携により人々をお招きするというような様々な仕組みをつくりだしていく、そのようなことを考えていく総合的な機構です。

 今、日本の社会は急速に高齢化・成熟化し、人口が急減しつつあります。現在、日本の人口は1億2,800万人ほどですが、あと一世代、40年くらい経ちますと、3,000数百万人の人口が減るというように予測されています。とりわけ北海道や東北、北陸、四国、中部、関西、そして九州などの様々な地方で人口が減ると予測されています。また、人口がそれほど減少しないと予測されているのは、東京、神奈川、滋賀、沖縄などのわずかなところです。そして、人口の減るところでは経済が機能不全になるおそれがあります。

 地方というものは、人材を供給し、食料を供給し、自然を守るという大変大切な役割を果たしています。この地方が今後とも健全なかたちで維持されるためには、特別な手立てが打たれなければなりません。これまで日本では、競争上不利な条件にある地方に対しては、交付税、補助金、税制優遇、工場誘致などが活用されてきましたが、高齢化で財政難になっている日本では、そのような手段を使うことが難しくなっています。また、工場も中国などに進出し、日本では立地が難しくなっています。
 しかし、地方がこのような不利な状況の中から、将来の健全な状況を維持するために、ひとつ大きな可能性があります。それは、大都市で年をとっていく人たちが、地方でのより健康的でゆったりとした快適な生活を望み、そこに移り住んでくださることによって、地方というものは経済が活性化する可能性があるのです。

 この機構には30ほどの県、600ほどの市町村、60社ほどの民間企業が参加をしており、人々の交流や移住を助けようとしています。人々が動けば、旅行会社、鉄道会社、航空会社、自動車会社、旅館やホテルも、そして人々が住み着けば、スーパーマーケット、介護施設、病院、教育施設なども繁栄する可能性があると考えられます。それには地方自治体と企業が一緒になって交流をし、共同で計画を立て、迅速に様々な事業を興していくことが最も重要なことになります。そのような「官」と「民」の協力関係をスピーディーに豊かにつくりだし、そしてその情報を多くの国民の皆様にWebや様々なイベントなどで提供しようとしています。

 これからますます多くの企業や自治体の参加を得て活動が発展し、様々な情報が多くの国民に提供され、それにより国民が健康を求めて人口の少ない地方にも移り住み、日本の列島の人口分布が健全なかたちになって経済循環が維持されることを心から祈りたいと思います。

2007年09月07日

絵を描く楽しみ

 私は最近、かなり一生懸命絵を描いています。今回はそのことについて少しお話してみたいと思います。

 昨年の10月に銀座のシャネルの本店で、4階のホールを借り切って「島田晴雄絵画展」という個展を開かせてもらいました。個展には25点ほど展示しました。しかし、そのために60点ほどの絵を描きました。絵は割と評判がよく、何千人かの人たちが訪ねてくださいました。8日間の会期で個展をしましたが、毎日異なったグループのお客様をお招きし、政治家のグループでは小泉前総理、福田先生、竹中平蔵先生をはじめ多くの方々、各国大使、産業界の皆さん、昔のクラスメイト、近所の人、私が大切にしている経営者仲間の島田塾の百数十人のメンバーの方々、沖縄や北海道あるいは福島の方、地域の方々など一生のうちに会いたいと思っていた方々、ほとんど来てくださったのではないかと思います。素晴らしい展覧会を開かせていただきました。

春暁

 なぜこのようなことになったのかといいますと、シャネルジャパンのリシャール・コラスという社長さんと私の家内とでヨーロッパを一緒に旅をした時に、ボルドーのシャネルが所有しているシャトーでその話になったわけです。リシャール・コラスという社長さんは、日本文化にも大変明るくて、シャネルジャパンを今日その世界のトップ企業に押し上げた見事な経営者ですが、同時に大変文化に造詣が深く、日本の「紅」や「藍」の研究をして、最近は本人は小説家になったと言って、本を次々に書くというような人です。その人が、私が小さい時に絵を描いていたということを私から聞いて、非常に興味を持って、ぜひそれを再開するようにと強く勧めました。

海光

 私は5歳から7歳の頃、後に世界的に有名になった岡田謙三という画家のもとに通って、絵を描いていました。岡田謙三先生はアメリカで非常に有名になりましたが、親友に藤田嗣治という画伯がおり、藤田先生はパリで非常に有名になった方です。戦後の日本を代表する国際的なアーティストと言えると思いますが、その人がまだそれほど有名でなかった時代に、私が育った東京の自由が丘に先生が住んでおられたので、私の母親が無理に頼み込んで、絵を描かせていただくことになったわけです。先生は当時、中年の生徒を個人的に何人か集めて絵を教えておられましたが、そこにいきなり5歳児がまじって、そのモチーフは驚くなかれ、ヌードを毎週描いていたという、そのような経験がありました。

 天才的な先生のもとで勉強したお陰で私もたぶん力がついたのでしょう。子供の写生大会で次々と優勝して、割と有名になったために、当時世界でグラフィック雑誌として、圧倒的な部数を誇っていたアメリカの「LIFE」誌が取材に来ました。そして1950年の1月23日号アメリカ版に、私のことを報道しました。同じ号に、中国の建国を果たした毛沢東の記事が出ているというのも、大変歴史的な事実です。

LIFE記事

 そのようなことを知ったコラス社長が、当時計画していた銀座の本店が完成した折りに、ぜひそこで個展をするようにと強くボルドーで勧めてくれました。ただ、絵をもう50年以上も描いていないので、絵の具の扱いも忘れてしまっていました。画想を考えようと思っても、なかなか画想が浮かんできません。とにかく毎日小さなスケッチブックを鞄に忍ばせて、一生懸命画想を考えるという生活が続きました。

 2年目に入ると割と自由に発想が出てくるようになり、3年目になると、何者かに憑かれたように次々と発想が浮かび、100号級の大きな絵に思い切り自分の思いをぶつけることができるようになりました。シャネルの個展の数ヶ月前に何枚も描きましたが、それはまるで自分でないかのような不思議な感覚でした。そして10月に大きな展覧会が催され、ほとんどの絵が売れてしまうという、大変な幸運に恵まれました。

木漏れ陽

 その後も絵を描いてくれという人がおり、また自分でも描きたいと思って、何枚かの絵を描きました。この夏は特に熱心に数日間絵を描きましたが、ようやく皆さんから頼まれた絵が完成して、今度は誰にも頼まれない自分のための絵を描こうと思っています。その絵のうちの何枚かは千葉商科大学の学長室に飾ろうと思っています。今から半年かかるか、十ヶ月かかるかわかりませんが、割と大きな絵を学長室の壁に何枚か掲げようと思いますので、どうぞ期待していてください。私の絵に興味を持つ諸君は学生さんも大歓迎ですので、学長室に足を運んでもらいたいと思います。

変革する日本

 皆さんはどんな趣味を持っていますか?小さい時から色々な趣味を持つということは、人生を楽しくします。大いに色々なことをして、明るい人生をチャレンジしましょう。

 なお、シャネルの個展のために描いた絵はこちらでご覧になれます。
http://www.shimada-juku.jp/painting_exhibition/
皆さんぜひ見てください。

 今回は、GPACがこれまでどのように活動を行ってきたかについてお話します。

 1992年に初めて慶應義塾大学の学生が何十人かソウルに行きました。そしてソウル大学で韓国の文化や歴史、課題を十分勉強しました。日本の一流大学の慶應義塾大学の学生が来るということで、韓国のメディアは騒然とし、その学会の期間中、八つもの新聞とメディアが来て取材をするというようなことがありました。大変注目をあびました。当時、韓国は若い学生が外へ出ることができないので、若い学生はみんな1回軍隊に行くのです。海外旅行をするほどの外貨がなかったので、二度も三度も慶應義塾大学がソウルを訪ねるということで積み重ねてきました。

 ある時、閔先生が自分の卒業生に、君たちが学生時代に一番参考になったことは何だったのですかと聞いたところ、卒業生の1人が実は慶應義塾大学とのジョイントの会議が最も刺激的だったと言ったので、閔先生も驚いたそうです。ソウル大学での自分の講義より、慶應義塾大学の学生と真剣に討論したことが何より役立ったという気持ちを伝えられて、彼も海外旅行が難しい状況の中で、その翌年、何十人もソウル大学の学生を連れて慶應義塾大学へ来たのです。

 そうこうしているうちに、サムソンの副会長をし、延世大学の教授だった李吉鉉(この人は日本の対日投資政策のアドバイザーなのですが)という素晴らしい実業家がその運動を伝え聞いて、全力で応援しようと言ってくれ、延世大学が加わることになりました。延世大学というのは世界最大級の企業であるサムソンがバックアップしていますので、すごい施設を持っており、素晴らしいプログラムなのです。

 その後、今度はこれを済州島で開くようにしようということになりました。観光の状況が素晴らしいということで我々は済州島に出かけ、国立の済州大学が加わり、済州島州知事も加わって、大変活発な運動になりました。

 今度は日本にこの人たちを呼ばなければいけないということになったのですが、日本というのは国際交流に適した施設もないし、慶應義塾大学は海外から来た学生さんを泊める宿舎もないのです。ソウル大学も延世大学も、ホテルのような素晴らしい宿舎を持っているのですが、日本にはそれがありません。私は沖縄の人たちに助力を頼むことにしました。沖縄には名桜大学という新しい大学があります。大変国際活動に熱心で、私が沖縄問題委員長になった時に、随分いろいろとお手伝いをした関係もあり、名桜大学がホスト校として引き受けてくれることになりました。それを慶應義塾大学や中央大学などが応援しました。

 ということで、だんだんと輪が広がってきたのですが、その頃に台湾の国立政治大学のグループが参加し、北京大学のグループも参加して、一大アジア学生交流会議というものが展開することになりました。もう14回目か15回目なのですが、今年は台湾で開かれました。来年は順番でソウル大学が開くことになります。再来年は日本で開くことになります。そのような会議に参加したのですが、私が慶應義塾大学の教授としてこの会議を閔先生と組んで起こしました。

 これは世界でもユニークな会議だと思います。というのは、どこからも補助金を貰っていないのです。個人的にどなたかから助けていただくということはありますけれど、文部科学省から補助金を貰うわけでもなく、どこかの奨学金団体から貰うわけでもありません。海外へ行き、勉強をして、友達をつくって、懸命な討論をする。その費用は基本的には本人負担です。十何万も二十何万もかかってしまうので、本人負担は少しヘビーなのです。何とか自己負担という原則で行っているという集まりはあまり聞きません。しかもそれが百数十人の規模になっています。

 私は創設者ですので毎年参加していますが、学生の議論のレベルがだんだん高まっていくのです。

 まず半年くらいインターネットを使い、お互いに協力して共通の問題意識を持ち、共通の論文を書く。それをお互いに直しながら当日出会うのです。そうすると半年間コンピュータの上でしか知らなかった人と、空港で会った時には実の兄弟よりも親しく、お互い抱き合ったりし、本当に親しいグループになっています。
 そして2日間の議論の中で、最後に取りまとめをしなければいけないという時に共通報告を出すのです。大きな公会堂でコンピュータを使ってプレゼンします。その編集を1時間以内にします。しかも、英語でスピーチするということをソウル大学や延世大学だけではなく、名桜大学の学生も慶應義塾大学の学生もします。そのようなことは普段得意ではないのですが、大変な熱意と努力の中で自然にできるようになるのです。

GPAC2007台湾3

 そのレベルがどんどん上がっています。このような教育は普通の正式な教育の中にはないのです。だから各国の学生さんたちが、ここへ来て一番勉強になったと言うのです。そのような仕掛けができているのです。

 ところが私が千葉商科大学の学長に就任したものですから、慶應義塾大学を去ることになり、島田ゼミというのも今年が最後になりました。各国の学生さんがすごく残念がって盛大なフェアウェルパーティを開いてくれました。今年の台湾合宿が最後になるということだったのですが、これだけの仕組みを15年もかけて、国際社会の中に自然に発生させてきて、みんなが熱意で集まっているのに、私はこれはもったいないなと思い、そのフェアウェルパーティで閉めの挨拶をした時に、最後に一言申し上げました。

 「確かに慶應義塾大学は辞めて、千葉商科大学に移ったけれども、千葉商科大学の皆さんとは何も話していないけれども、日本に帰ったら千葉商科大学の学生さんと話してみたい。このような運動に参加したいかどうか、もし参加したいというような学生さんがいるのであれば、その人たちを連れて、来年のソウルに私は現れるかもしれない。期待して待っていてください」と。

GPAC2007台湾4

 今度は千葉商科大学の学生さんを連れて、この会議に参加することができればと願っています。

 8月下旬に台湾でGPAC(Global Partnership of Asian Colleges)2007台湾という、アジアの学生さんの国際会議が開かれました。これは15年の歴史を持つ、自然発生的な学生さんの国際会議です。今回は三つの国から150人くらいの学生さんが集まりました。

 三つの国というのは、日本と韓国と台湾です。日本からは慶應義塾大学、沖縄の名桜大学、韓国のソウル大学と延世大学、済州島の国立大学(済州大学)、そして台湾は国立政治大学。特にこの韓国の国立大学であるソウル大学(Seoul National University)と延世大学は世界でも知られている一流の大学です。それから台湾の国立政治大学も大変有名な大学です。

 150名くらいの学生が集まり、10くらいのテーマ(国際金融、労働市場、貿易など)で共同研究をしました。共同研究は同じテーマについて、異なった大学、異なったゼミ、そして異なった国々の学生さんが共同で参加します。ひとつのチームは5人~10人くらいです。まことに多国籍で色々な大学やゼミの人たちが参加するのですが、みんな大会に出てくるまでに何ヶ月もかけて共通の論文をつくらなければいけないのです。そのためにみんな自分たちで勉強するのですが、国境を越えて海を越えて勉強していますので、インターネットを使用し、最初の頃にどんなテーマを議論したらよいだろう、そのテーマにはどんな課題があるだろう、というものを練っていくのです。各国の意見が違ったりしてきますので、それでは研究にならないとか、色々と議論しながら数ヶ月かけてそれぞれネットの上で論文みたいなものを書いていきます。それを当日持ち寄って議論するということです。

GPAC2007台湾1

 今回は8月22日に開会式をし、22日・23日と全体討論分科会、そして23日の終わりに全体発表会ということでクロージングしました。ただ、その前に学生さんは20日からすでに現地に入り、ホームステイをして、そして21日・22日の午前中まではそれぞれ自分たちのグループでずっと議論を重ねていますので、実質的には4日間くらい議論することになります。それを終えてから2日間くらいは台湾で観光をしたり、スポーツをしたりしますので、大体学生さんたちは1回行くと1週間くらいかけてホームステイと勉強とお遊びというプログラムなのです。

 このGPACというプログラムは15年くらい前に始まったのですが、これは私とソウル大学の副学長をなさっている閔相基先生と2人で構想して1992年に立ち上げたのです。

 どうしてそのようなことをしたのかというと、このブログを読んでいる皆さんがご存じのように、1989年11月にベルリンの壁が崩されました。そして、世界の冷戦が終わることになりました。
 世界中が大騒ぎでした。冷戦時代というのは世界がパックス・アメリカというアメリカの同盟国とソ連の同盟国に二分され、東西対立ということになっていたのです。東西対立は第二次大戦後の大変困難な人類の歴史であったと思います。第二次大戦後にアメリカが世界の主導権を取ろうと思ったのですが、ソ連もそれを譲らず、自由主義陣営と共産主義陣営ということになり、その亀裂があちこちに生じました。

 例えば朝鮮半島です。朝鮮半島は、終戦直前にソ連が朝鮮半島を支配しようということになり、一時は占領体制になりましたが、アメリカ軍がこれを南から押し上げ、38度線というものをつくり、朝鮮半島は北朝鮮と南朝鮮に分かれ、同じ民族が引き裂かれることになりました。
 また、同じことがドイツでもありました。ドイツは連合国、つまりアメリカやイギリスやフランス、その他の国々がドイツを戦後統治しようとしたのですが、ソ連が東側のドイツを全部占領し、ベルリンを封鎖、そして包囲するということをしました。その結果として、ドイツ民族は二つに引き裂かれました。

 そのような戦争から戦後にかけての辛い歴史の中で、実は日本と韓国は大変難しい立場に置かれたのです。戦前は朝鮮全体が日本の支配下にありましたので、反日運動が大変盛んでした。日本が第二次大戦で敗れたために彼らは独立するのですが、それ以降は、北朝鮮はもとより、韓国と日本の交友関係というのは断ち切られてしまいました。韓国も日本も東洋文化という、実は同じ文化を持っています。そして地政学的に言えば、非常に近い国々なのですが、お互いに交流が全くないというような時代が何十年も続きました。

 冷戦が終わってこれからは自由の時代が来るかもしれないと、閔相基教授も私も考えました。お互い全く知らなかったのですが、ハワイのある国際学会でたまたま出会いました。このような考え方を共通して持っていたので、共通の友人の家で夜を徹して徹底討論し、これは閔先生も私も若い世代のために何かしなければいけないということになりました。冷戦が終わって世界を覆っていた暗雲が少し途切れて、青空が少し見えている。この青空を若者たちにしっかりと手に取らせてあげようと。

GPAC2007台湾2

 我々の世代では交流することができなかったので、若い人たちに交流をさせようということで相談しました。本来学生というのは、学問をするために暮らしている人たちですので、やはり交流は学問を通じてしようということになり、学問のある共通テーマを定めて、真剣に討論をすることで友情を結ぼうということになりました。その時に、言葉はハングルがよいのか日本語がよいのかということになりましたが、それだとどちらかが有利になってしまいます。また通訳をつけると自分の気持ちが伝わらないので、通訳なしですることになり、第三国語、お互いに得意ではない言葉ということで英語を選び、英語以外は使わないということになりました。好きで使っているわけではないのですが、お互いに不利な言葉ということで、等距離に置こうということで始めました。

 GPACのスタートはこのような経緯でした。次回はこのプログラムがどのように活動を行ってきたかをお話したいと思います。

 7月16日午前10時13分に新潟県中越地方で震度6強の激震が発生し、柏崎市を中心に広い範囲に渡って甚大な被害を受けました。特に柏崎刈羽原子力発電所では設計の想定以上の激震だったということで、設備に多数の支障が起き、原発の発電機能が当分の間停止することになったというニュースがあり、世界中がそのニュースに注目することにもなりました。

 実は本学には新潟県の被災地域出身の学生諸君が35名ほどおり、これら学生諸君の実家は様々な形で被害を受けたようです。
 今後の対応として、学生諸君が困難な状況の中でも学業が中断されないように、また学業を続けることができるように、本学としても最大限の対応をしたいと考えています。

 本学ではこのような激震災害があった場合に、見舞金の支給や学費の免除といった対応をすることにしております。これまでも阪神淡路大震災、あるいは2004年の新潟県中越地震の際に、その基準に従い学生諸君の支援を行いました。
 今回もそれに準じた対応を早急にすることを決め、被害を受けた学生諸君については早く被害届けを出してもらい、適切な対応をするよう、7月19日の理事会で急遽決定した次第です。

 日本は世界でも有数の地震国であり、また台風の被害を常に受ける国でもあります。学生諸君も様々の形でその影響を受ける可能性があり、本学としてもできる限りのことをし、彼らの勉学に支障がないよう支援をするつもりで臨んでいます。

 被災地の方々には今一度、お見舞いを申し上げるとともに、若い学生諸君のこれからにとって、このような被害が障害にならないよう努力する覚悟でおります。

2007年06月16日

キャッチボール

 今日はちょっと趣向を変えてキャッチボールの話をします。

 皆さんは学長が本館の近くのグラウンドの隅でキャッチボールをしている姿を見たことがありますか?最近はやっていないのですが、4月から5月にかけて何回かキャッチボールをやりました。

CUCグラウンドでのキャッチボール

なぜかというとそれは次のような理由です。8月31日に千葉マリンスタジアムで、千葉商科大学創立80周年を記念する「CUCマッチデー」のイベントとして新学長の私が始球式をすることになっているからです。
 私は学長に就任するまではまさかそんな企画になっているとは露知らずにおりましたが、就任したら直ちに始球式をすることになっていると聞かされて大変驚きました。しかしもう決まったことだから、逃げるわけにもいかないので覚悟は決めていますが、ここで一つ重大な問題があります。実は私はこの50年間ぐらい球を投げたことがないのです。子供の頃とか小学生の時にはキャッチボールをした記憶はありますけれども、いつの間にかボール遊びはしなくなりました。

 私は水に関する遊びは大変得意で好きでもあります。例えば私はスキューバダイバーですが、1年に何回も沖縄とかあるいは海外でスキューバダイビングを楽しむことがあります。

 また船が大好きで、1年に1回沖縄の宮古島を出航して数日間、東シナ海で親しい友達と海のダイビングを楽しむことにしています。また私自身大変小さなヨット、オートバイぐらいの値段で買えるのですが、そういうヨットを持っていて福島の猪苗代湖で時々乗ります。
 私は、千葉商科大学の学長になるまでは慶應義塾大学の教授でしたけれども、慶應義塾大学の端艇部というもの、ボート部ですね、その部長でした。実は私は高校生の頃に、東京オリンピックを目指す全国の代表ボートチームのコックスとして候補になりました。私が大学4年の時に東京オリンピックが開催される予定でしたから、5年間の予定でナショナルチームとして強化合宿に入ったことがあります。途中で私は痔を悪くして船を降りざるを得ず、私のサブコックスだった人がオリンピックに出たわけですが、そんな縁もあって私は慶應義塾大学のボート部長になったわけです。

 そして私は水泳も大変好きで、今64歳ですが今でもだいたいプールに行くと1000mは泳ぎます。夏になったら千葉商科大学のプールで泳ごうと思いますから、興味のある人はぜひ一緒に泳ぎましょう。

 という水のスポーツの島田なので、球投げは大変不得意です。実は困ったことが分かりました。キャッチボールをする時には、まず足と腰と上体の三つがそれぞれバネのようになって力を複合して、その上で腕のバネを効かし、そして手首のバネを効かします。その四つのバネが重なって、良い投球フォームになるわけですが、さらにその上に小さいバネが一つあります。それが親指と人差し指と中指で挟んだボールを、特に人差し指と中指でそっと方向性を定めて押すバネです。これを指離れと言いますが、なぜか50年球に親しまなかった間に、指離れの感覚が全くなくなっているのです。

CUC野球部員と

 そこで野球部の諸君に無理なお願いをして、私のキャッチボールの相手をしていただいてこれまでに少し進化しました。しかし最近学務が急に忙しくなって、キャッチボールをしている時間がなくなってしまったので、8月31日の始球式に間に合うかどうか、内心大変心配をしているところです。

 またいつか時間を見つけて、なんとか指離れの感覚が戻るまで投げ込みたいと思いますが、私が本館横のグラウンドで投げているところに出会ったら、皆さんどうぞ声をかけてください。

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