『アジアをつなぐ英語』本名信行著
アルク ISBN4-7574-0069-1 本体880円
告白しよう。ぼくはコミュニカティブな授業が苦手だった。そういう授業をすべきだという信念から担当していたが,たどたどしい英語での授業はけっこう苦痛だった。まして英語で授業を行うためには,毎日英語を話す訓練が必要で,それも苦痛だった。そしてどんなに練習しても,ALTと授業をするといつもひけめを感じていたし,授業以外でも,英語らしい表現を教えてもらっていた。そうするとなんだか英語母語話者の方が偉いような気がしていた。その結果,気に入られようとして,また早く彼らのような英語を話したいために,彼らのように振る舞い,考えようとしていた。だから,本書の次のくだりを読んだ時,「ぐさり」とつかれた。「日本人の英語の先生のなかには日本人と違うと言われると,ことのほか喜ぶ人がいる。イギリス人やアメリカ人のように見られたいらしい。英米への同化願望と日本からの逃避願望がイメージの中で渦を巻いている。いずれもかなわぬ夢であるが,そのフラストレーションはアジア軽視につながりやすい(127)」。
また,本名さんは次のようにも言っている。 「「正しい」英語を話そうとすることばかりに気を使い,発言内容をも英語能力にあわせがちになる。英語が未熟だと,それに相応したことしか言おうとしない。これは大変危険な行為である。特に成人の場合は,知識の程度を疑われたり,社会参加への意図を勘ぐられたりする。なによりもコミュニケーションが不平等になる(130)」。僕は英語を話すことにけっこう努力をしてきた。でもなかなか英語母語話者のようには話せなかった。なぜだろうか。本書は言う。「わたしたちの英語教育(学習)のモデルも非現実的といわざるをえない。そのきわみは,学習者がネイティブなみの能力の獲得を求められることだ。また,ネイティブ文化の学習同化も重要視される。この目標の達成が不可能なので,いつまでたっても英語に自信がなく,それを積極的に使用しようという意欲がわかない。ネイティブと同じように話せないと,ちゃんとした英語でないように思ってしまう」。そうか,われわれがコミュニカティブな授業というとアメリカ人のように教え,生徒にもそうさせようとする。そこに問題があったのか。それが達成できないのは,われわれに非があるのではなく,日本の環境で学ぶ限り母語話者なみの能力になることはかなり難しいのだ。そう考えると,少し気が楽になった。そうすると,われわれはどのような英語を目指していけばいいのだろうか。本名さんは言う。「日本人はアメリカとの関係から,英語をアメリカの言葉として考えがちである。もちろん,英語をそのように捉えて,そのように使用したいと希望する人がいてもかまわない。ただし,英語はそれ以外の働きをしていることにも注目する(4)。アジアの多くの人々は英語をイギリス人やアメリカ人と使うよりも,アジア人同士で使う確率が高い。これは日本人にも当てはまるし,今後ますますそうなるに違いない(3)」。
この本を読んでいる時,21世紀懇が「英語の第二公用語化も視野」を発表した。英語教育が重視され,日本人同士が英語で話すようになったらどうなるだろう。その未来図の一つが本書に示されている。「(シンガポールでは)1980年代の後半になると,1950年代の後半に始まった英語教育の成果が顕著に見られるようになった。その頃になると,人々は,家庭や学校や職場などで好んで英語を話すようになっていた。家庭で英語を話す人々は人口の11.6%(1980年)から20.3%(1990年)に上昇した。ただし,その英語は期待していたとおりの標準英語ではなかった。それはシンガポール人のクセの強い,シンガポール英語であった。 (32-33)。1980年代のはじめに,そのような変種の是非をめぐって,大論争が起こった。シンガポール政府は当時の状況を憂慮して,国際社会で通用する「純粋で,きれいな」英語を振興する政策を実施しようとした。一方シンガポール国立大学の言語学者は,国際的標準というような基準を押し付けることを止めて,シンガポール人は土着の変種を創造しているのであるから,それに誇りを持つべきであると主張した。その変種は国民意識の反映でもあり,社会的,文化的必然性の結果であった(36-37)」。しかし,そのような土着の変種であっても1997-1998年にかけてシンガポールのトーフルの平均点は603点(同時期の日本は498点)と国際的なコミュニケーション能力を引き上げていることも事実である。この例から考えると,日本でもっと英語の使用が進むと,当然日本の文化的影響を受けた独特の英語が話されるようになるし,それで全般的には,日本人の国際コミュニケーション能力は向上するだろう。
そこで疑問が起きる。いろいろな国が独特の英語の変種を発展させたらどうなるだろうか。本書は言う。「アジア英語は一様,画一ではない。アジア各国の人々は独自の言語文化の影響を受けた英語を話すのである(3)。わたしたちが英語をアジアの国際コミュニケーションの言語として使用するためにはこの多様性を受容しなければならない(4)。英語の話し手の数はネイティブ・スピーカーよりもノンネイティブ・スピーカーの方がずっと多い。彼らはいろいろな工夫を凝らしながら,このもう一つの言葉を異文化コミュニケーションの媒体として,有意義に使おうとしているのである(4)」。そうすると,わたしたちは結局「わたしたちはわたしたちが使いやすい英語のパターンを発見し,それを効率的に学習し,うまく使いこなす必要に迫られている(5)。英語の国際化にともない,わたしたちはいままでと違った英語観を育成しなければならない。また,私たちはときにより,自分の言い方を良く吟味して,相手にわかりやすいように修正する必要がある。これらはノンネイティブ・スピーカだけでなく,ネイティブ・スピーカにも求められる事柄なのである(5)」。そうか,いままでアメリカンスタンダードをグローバルスタンダードと考えてしまい,アメリカ人のように英語を話すべきだと考えていた。そうではなく,日本の文化及び教育にあった英語をまず話せばいいのだ。われわれが教えるのはアメリカンスタンダードの英語ではなく,「国際語としての英語」であるのだ。そして,その英語で堂々と意見を言うこと,また生徒に意見を言わせる練習の方がずっと大事なのだ。また,同時に英語母語話者も自分の言語を一方的に押しつけるのではなく,異文化間コミュニケーションをするためには,われわれと同様に,「国際語としての英語」を聞き話すための訓練をしなければならなくなるんだ。そう考え出したら,肩の力が抜け,英語母語話者に媚びなくなった。不思議なもので,そういう気分になると,気楽に英語が出るようになり,英語母語話者らしい表現ではなく,日本で教わってきた文法をつかっての英作文で英語を話し始めた。俄然意見が英語で言いやすくなった。
ただ,課題は残る。われわれ日本人が教えやすい,そして話しやすい英語とはどういうものだろうか。本書にも明確には言及していない。もちろん,これはわれわれ英語教師が今後明るく考えていくべき課題であろう。
その他,ここでは紹介できなかったが,アジア諸国の英語教育の状況,アメリカ英語についての記述など読みでのある本である。