魔女の一ダース
(新潮文庫) 米原万里著

  以前から,この本の作者であり,ロシア語の同時通訳者で有名な米原万里さんには好感を感じていた。彼女の書くものはおもしろい。テレビの番組欄で,彼女の名前を見ると必ずビデオをとる。コメントがしゃれている。同じ文庫で刊行されている『不実な美女か貞淑な醜女か』も勉強になったけど,この本の方がずっと気軽に楽しめてしかも教えられることが多い。この本にあるような文章を書いてみたいなあ,とため息がでる本だ。なぜ,この『魔女の1ダース』がおもしろいのだろうか。

  まず,彼女は通訳者だから,言語習得に関する話が興味深い。彼女がいうには,ロシア語に近い言語を母語とした人たちは,ロシア語を速く習得するが,どうしても似ている母語の干渉を受けてしまい完璧なロシア語を話すことはないそうだ。むしろロシア語と異なる語を母語に持つ人の方が,時間はかかるがきちんと学べば完璧なロシア語を話すようになったという。それはなぜかというと,彼女は「初級を徹底的に身につけること,これが言語を身につける基本のようだ。ところが,人間の脳味噌にはなるべくサボろうとする機能が自動的に備わっている。あるパターンを新たに習得する労を惜しんでできあいの類似パターンで間に合わせてしまう機能がオートマチックに作動してしまうのだ。隣接する言語の学習においてはこれがしじゅう作動する。<中略>その言語と姻戚関係が遠ければ遠いほど手元に類似パターンがないため,この省力装置は作動しない。つまり脳は謙虚にその言語に接し,新鮮な発見をし,その言語を突き放して,根源的に構造を究明しようとする無意識の意志が生まれやすいのではないだろうか」という。その証拠として,彼女はロシア語を少女時代に身につけてしまったために大学院で当初同級生の誰よりもロシア語をスラスラ読みこなせたが,結局学者としてはものにならず,同級生たちは斯界の大御所になっているという。なるほど一理あると思った。じゃあ,われわれは英語と言語構造が姻戚関係にない日本語を母語としているので,努力次第では完璧な英語が話せるようになるはずだ。これだけ読んで,あきらめていた英語の完璧な習得にもあらたな希望をもってしまった。そして,やっぱり言語習得においては基礎の繰り返しが重要だ,ということを再認識した。生徒にも初級文法をきちんと習得させないと,結局はものにならない学習をさせていると思った。

つぎに,おもしろさを感じるのは,この本が自分の「正義と常識に冷や水を浴びせかけてくれる」からだろう。彼女の考えに触れると,ぼくがいかに英米の常識におかされているのかを示してくれる。たとえば,名画中の名画といわれる「カサブランカ」をカザフスタンで上映したところ,現地の映画人の間で惨憺たる評判だったそうだ。なぜかというと,「ナチス・ドイツからのヨーロッパからの解放をしきりに叫ぶ主人公たちが,フランスの植民地であるモロッコに平気で支配者面をしているおめでたさにあった。同じアジア人のカザフスタン人は,この欧米人の無神経に即座に気づいたのに,日本人は戦後この映画が上映されるや名画としてありがたく奉った」。なるほど,そういわれればぼくも「カサブランカ」をありがたく奉った一人だということに気づいた。日頃どうしても英米文化にどっぷり浸かっているとこのような気づきをする機会はあまりない。この本を読み進むうちに,このような「気づき」を促す異文化のエピソードにいくつか出会うことができる。

  多くの人は異文化に対してなんとなくあこがれを持っている。とりわけ英語教師にはその傾向が強い。いまでもそうだが,ぼくは聞きかじりの異文化を偉そうに授業中に話すことがある。生徒がおもしろそうに聞いてくれると一人で悦に入ってしまう。この本にあるいずれのエピソードはニヤッと笑わせつつなるほどと感心させる迫力がある。観察眼が優れた人が多くの国で現場を踏んだ迫力だろう。同時に米原さんはこの本で異文化について分析をしている。ぼくは異文化が好きだが,自分を含め多くの人がなぜ異文化に惹かれるのか,正直言って理解していなかった。彼女は辻由美さんの言葉を引用して言う。「異文化の含有する新しい世界観やものの見方が,行き詰まった社会や文明に突破口を開き,新たな可能性をもたらすからであろう」と。そして彼女は「異端は自己完結をしているかのように見える世界に風穴をあけてくれるからだ」とも言う。なるほど,日々浸かっている生活に,ただ流されていきたくない気持ちが異文化に対する憧れを産むのか。日常とは異なる別の視点を持つことができることが興味深いのだろう。そういう別の視点を持つことを好む人が英語教師に多いのだろう。

そして,受容する異文化が支配的になると憧憬だけでなく,反発をも伴うと米原さんは指摘している。「支配的なものに対する憧憬は往々にして抑圧された反発と隣り合わせになり,それはあるときには憎悪に転じる。日本の近代化を例にとってみればよい。古代から日本人は中国文化に範をあおいできた。しかし,日本が中国から西洋へと師の鞍替えをやってのけようとしたとき,そこから芽生えてきたのは,それまで師とあがめた中国に対する敵対心と蔑視ではなかったか」と。この文を読んで,中学入学以前にはあこがれていた英語という教科の受容に失敗した生徒の多くは往々にして学校英語に対して敵対心を燃やすことがあることを思い出した。また,一生懸命英語を習得しようとしてきた英語の教師の中にも英語が「地球語」になる現実に対して異様に反発をする人がいることも思い出した。異文化の受容は憧憬と抑圧された反発を持つ例であろうか。

 多くの人は異文化に対してなんとなくあこがれを持っている。とりわけ英語教師にはその傾向が強い。いまでもそうだが,ぼくは聞きかじりの異文化を偉そうに授業中に話すことがある。生徒がおもしろそうに聞いてくれると一人で悦に入ってしまう。この本にあるいずれのエピソードはニヤッと笑わせつつなるほどと感心させる迫力がある。観察眼が優れた人が多くの国で現場を踏んだ迫力だろう。同時に米原さんはこの本で異文化について分析をしている。ぼくは異文化が好きだが,自分を含め多くの人がなぜ異文化に惹かれるのか,正直言って理解していなかった。彼女は辻由美さんの言葉を引用して言う。「異文化の含有する新しい世界観やものの見方が,行き詰まった社会や文明に突破口を開き,新たな可能性をもたらすからであろう」と。そして彼女は「異端は自己完結をしているかのように見える世界に風穴をあけてくれるからだ」とも言う。なるほど,日々浸かっている生活に,ただ流されていきたくない気持ちが異文化に対する憧れを産むのか。日常とは異なる別の視点を持つことができることが興味深いのだろう。そういう別の視点を持つことを好む人が英語教師に多いのだろう。
そして,受容する異文化が支配的になると憧憬だけでなく,反発をも伴うと米原さんは指摘している。「支配的なものに対する憧憬は往々にして抑圧された反発と隣り合わせになり,それはあるときには憎悪に転じる。日本の近代化を例にとってみればよい。古代から日本人は中国文化に範をあおいできた。しかし,日本が中国から西洋へと師の鞍替えをやってのけようとしたとき,そこから芽生えてきたのは,それまで師とあがめた中国に対する敵対心と蔑視ではなかったか」と。この文を読んで,中学入学以前にはあこがれていた英語という教科の受容に失敗した生徒の多くは往々にして学校英語に対して敵対心を燃やすことがあることを思い出した。また,一生懸命英語を習得しようとしてきた英語の教師の中にも英語が「地球語」になる現実に対して異様に反発をする人がいることも思い出した。異文化の受容は憧憬と抑圧された反発を持つ例であろうか。

最後に,米原さんの本が光っている理由の一つに「シモネタ」の言語的解説がうまいことがあげられる。彼女はこれを「他言語にまたがる駄洒落を貫くある法則」と名付けている。彼女は「異言語間の駄洒落すなわち音韻上の偶然の一致や類似は,何故かシモネタに多いのである。そう感じるのは私の個人的な素質のせいかも知れない,と長年思いこんでいた。記憶の網に濾過されて残る知識の多寡は,やはり関心の度合いに比例するのだからと,しかし,最近客観的な原因を発見して膝をたたいた,一人胸にしまっておくのはもったいないので,まずは読者諸兄にお知らせする」。さて,この続きをばらしてしまうのは彼女に対する信義に反すると思うので,みなさんもお買いになって読んでください。笑いながら常識と正義に冷水をかけてみられたらいかがだろうか。500円で買える。 決して損はないと思う。

ISBN4-10-146522-3  \476(税抜き) 

 

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